『シン・ゴジラ』が提示する、コミュニケーションという問題【ネタバレあり注意】

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(画像は東宝シン・ゴジラのページより)

アーサー・C・クラークの短編小説に『前哨』という作品がある。

前哨 (ハヤカワ文庫 SF (607))前哨 (ハヤカワ文庫 SF (607))

やや乱暴にあらすじをまとめると、
[※こちらもネタバレを含むので予めご容赦]

人類が宇宙への進出を果たした後、月の裏側でピラミッド様の物体が発見され、そこから遠宇宙へ向けビーコンが発せられた。
明らかに”何らかの目的”を持って地球外の”誰かが”設置した筈のその物体に対して、人類は為す術なく途方に暮れる。

1948年に著されたこの短編は、後のSF映画の金字塔『2001年宇宙の旅』を創る基となった、というエピソードはSFマニアなら試験に出る必須項目だ。

『前哨』で登場した”ピラミッド型のもの”は、『2001年』では”1:4:9の比率を持つ直方体”=モノリスへ置換され映画マニアにとってはお馴染みのアイコンとなる。
だが、元ネタである短編『前哨』において、月面で発見された”ピラミッド”はモノリスとは違い人類を木星軌道(小説では土星)へ、果てはスターゲートの彼方へ導きはしない。

突然目の前に出現した謎の物体。

だが、人々が試みたコンタクトは一切受容されず、ただその場に在り続ける。

それが『前哨』に登場した”ピラミッド”だった。

 

■異文明あるいは異形との接触
ここで注視すべきは、この物体が『2001年』におけるモノリスのようなアクセス装置や翻訳仲介機としての機能は果たさず、あくまでも”ただ、存在するだけ”ということだ。

“ピラミッド”は、只の存在に過ぎない。
にも拘らず、人類は眼前に出現したそれを持て余し、目障りだと云わんばかりに容易く粉砕してしまう。

たとえ危害を及ぼすものではなくとも、異物はそこに存在しているだけで充分に厄介だったのだ。

 

異物を、異世界や異生物、或いは異文明と置き換えてもいいかもしれない。
そういったものと対峙したとき、我々のとるべき道は、先ずはコンタクト=どうにかして相手とコミュニケーションを図ることというのが自然であり常識的思考だろうと思う。

ところが、『前哨』における”ピラミッド”は、そうした接触を図ることができない。

 

これはSFのひとつの思想ともなっているが、”果たして、異文化と接触したとき、コンタクトは可能なのか”という命題にも繋がる問題だ。
コンタクト、更にはコミュニケーションを試行するには、共有できるメンタリティが必須なのではないかという仮定。
ちょうど人と人とが理解するには先ず共有可能な言語体系が媒体として必要であるように。
幸いにもこの地球上では文明の遭遇は人類間同士でしか行われていないので、言語が違っていても人間としての感情を共有していた。ためにカルチャー・ショック等相互作用は生じても相互理解は可能であった。

『伝説巨神イデオン』ではふたつの文明が些細な行き違いから互いを滅ぼす行為にまで及んでしまったが、『惑星ソラリス』においては、元から相互に理解できない人類と”プラズマの海”との間でのコンタクトの仮想実験が描かれる。

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さて、といったところで本題の『シン・ゴジラ』である。

『シン・ゴジラ』を観たとき、

「これはクラークの『前哨』だな」

とすぐに連想した。

 

[!—–ここからネタバレ—–]

 

■意思疎通、コミュニケーション
『シン・ゴジラ』における”巨大不明生物”=ゴジラは、何か目的を持って東京に上陸をしたのではない。

いや、あるいは何らかの目的が彼の内には在ったのかもしれないが、それは人類の側には図り知れない。
そもそも「何か目的があるのではないか」と意味を探ることそのものが人間的な尺度でゴジラを捉えようとすることであり、それ自体が認識の枠を設け狭めてしまうこととなるだろう。
よく重篤な犯罪が起きたときに「犯人の心の闇は云々」といった議論がワイドショーで繰り広げられるが、他者の行動の心理的要因など本人以外が判るはずもなく、そこでそれっぽい説明が為されたところで或る一面を捉えるに過ぎない。本来は多面的な原因が積み重なったにも拘らず。
それでも、人々は納得できる”ストーリー”を欲することから齟齬や誤謬は生まれる。

ましてや異形の生物に対しては、人間的な解釈など当て嵌まるはずがないだろう。

 

■怪獣への感情移入
これまでの一連のゴジラは、少なくとも何らかの「怒り」であったり、
(或いは明快に人類や地球を救う側であったりするが)
生物の持つ原初的衝動(たとえば『ゴジラの逆襲』や『キンゴジ』にみられる純粋な闘争本能)など、怪獣として持つ”感情”を我々は見てゴジラを捉えていた。

いや、もともとそういった「怒り」や「憤り」をゴジラに見出すことそのものが只の感情移入であり、人間側の尺度で眺めているにすぎないのだが。
それでも、まだ感情移入できるという意味において、ゴジラは同調可能な概念であったのだ。これまでは。

シンパシーやシンクロナイズという言葉で説明してもいいだろう。

 

だが今回我々の眼前に出現した”ゴジラなる巨大不明生物”は、そうした同調を一切を拒むように、ただ東京という都市を破壊する。
そもそも「破壊」という概念さえもゴジラに在るのかも不明だ。

 

■バルンガ
かつてTVシリーズ『ウルトラQ』に『バルンガ』という挿話があったが、今回のゴジラはあのバルンガと似ている。
人間などまったく意に介さず(そもそも意識があるのかさえ不明だが)バルンガは地球を通り過ぎ太陽へと向かっていった。

(少々脱線するが、先の『前哨』を著したアーサー・C・クラークに『宇宙のランデヴー』という作品があるが、そこで登場するラーマ人も人間にはまったく関心を示すことなく太陽系を横切っていった。ラーマ人はバルンガと同質か?)

バルンガのエピソードはウルトラQでも屈指の形而上学的内容の作品である。

 

SFの世界では異星人(または異世界・異形の存在)との接触がひとつのジャンルだが、異世界からの来訪者が我々人間と類似のメンテリティを保持しているとは限らない。
コミュニケーションはあくまでもメンタリティが類似していた者同士でしか成り立たないのではないか、とSFクリエイター達はしばしば言及する。

 

スター・トレックでコミュニケーションが成立するのはヒューマノイド型の生態系の者たちばかりだ。(なぜトレック世界ではヒューマノイド型ばかりが文明を持つに至ったのかはネクストジェネレーション[TNG]第146話『命のメッセージ』で説明される)劇場版第1作で登場した機械生命体とは意思疎通が極めて困難だった。
(後にカーク艦長ことウィリアム・シャトナーが書き下ろした小説シリーズではボーグと繋がっていく。『ジェネレーションズ』で死んだカーク提督が生き返ったり鏡像世界のカーク=ティベリウスが出てきたりとシャトナーの俺様っぷりも微笑ましいトレッキー必読の書)

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とはいえ機械生命体の代表格のあのボーグでさえヒューマノイド型であり、セブン・オブ・ナインという”はぐれボーグ”が後にアクセス装置としてレギュラーとなってゆく。

 

■『ソラリス』
意志の疎通が不可能という代表例はスタニスワフ・レム『ソラリス』のプラズマ状の海だろう。
ソラリスの海は人類とは完全に異質のメンタリティを備えているが、接触=コミュニケーションの手段として相手の深層心理を具象化させる。だがそれに何の意味が在るのかは理解の範疇の外であり、意志の疎通を試みているわけではない。

プラズマの海はただ人間の意識下を化学反応として判断し、模倣していただけなのだろう。ちょうど『未知との遭遇』で地球人が示した手話をマザーシップの異星人が真似たように。
アクションに対して丸ごとのコピーをリアクションする、というのはコミュニケーションにおいて初歩の手段なのだろう。カール・セーガンの小説『コンタクト』では外宇宙からナチスのTV演説が返って来るし、ウルトラセブン『超兵器R1号』では攻撃と解釈され攻撃で返答される。

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※映画版には上述のくだりは無い。

だが、そうしたリアクションもまた一定度以上の共有された概念が存在していなければ成され得ないのもまた事実である。
先の『ソラリス』では、果たして地球人という生体を”海”が認識しているのかさえ疑わしい。
クラーク作品『前哨』は意思疎通が叶わず破壊してしまい、対して『宇宙のランデヴー』では人類は完全に無視された。

 

■『シン・ゴジラ』とクラークの『前哨』
少なくとも『シン・ゴジラ』が上述の『前哨』と類似した物語構造を持っているとボクは思う。

『シン・ゴジラ』公式サイト(画像クリックでジャンプします)
『シン・ゴジラ』公式サイト(画像クリックでジャンプします)

『シンゴジ』におけるゴジラが我々と意志の疎通が叶わないのは、人間が植物や昆虫とコミュニケーションが図れないのと同様、メンタリティがあまりにも違いすぎるためでろう。
ただ、ゴジラが厄介なのは、ほぼ動かない植物や小さな昆虫と違い、余りにも巨大で予測不能な広い範囲を動き回るからだ。

ウルトラマンに登場した怪獣ガヴァドンも「ただ、存在するだけ」でも充分に迷惑な存在であり、排除の対象となった。
(思い返せばガヴァドンもまたソラリスの海のように少年の夢想を実体化させたものである)

人間とは、理解できない上に目障りなものは潜在的に排除したがる種族なのかもしれない。
[思えばかつてのオタク差別や「非実在青少年」と称されたような一連の件は、このような判断停止な不寛容さから生じているのだろうがこれはまた話が長くなりそうなので割愛。]

 

これまでのゴジラシリーズでは、ゴジラは怒りや破壊の象徴であり、時として人類の味方であったり、果ては神の代弁者であるかのようにふるまい、或いは見做されてきた。
ところが『シンゴジ』は違う。まったく異質の、異形の存在がスクリーンに映し出された。

我々観客さえも未知の、理解不能の存在。
それが『シン・ゴジラ』の姿だった。

理解の範疇を超えたもの、という概念においても、『前哨』のピラミッドとの符合を見出すことができる。

 

『シンゴジ』の”巨大不明生物”への対処は、人類のカルネアデスの板の選択である前に、異質で理解できないもの・感情移入を拒む存在を目の前から除外したいという本質的なメンタルから生じたエモーションの結果のように感じる。

 

■『エヴァ』から『シンゴジ』へ
表現者として庵野を鑑みるとき、『エヴァ』から『シンゴジ』に至る変遷は、注目すべきものがある。

たとえば庵野秀明の作品というと『エヴァンゲリオン』の主人公・シンジに代表されるように、人との関わりを極度に畏れ、常にヒリヒリとした痛みを持って世の中と接している。
なのに、ひととの触れ合いそのものには飢え、心の内では欲している。時としてその発露は極めて歪な形で決壊し現れる。
(目の前に昏睡した半裸の女性がいても触れることもできずに傍で視姦と自涜をするくらいに)

触れ合いたいが、触れれば傷つけ合う。「ヤマアラシのジレンマ」とも『エヴァ』(TV版・第参話)で言及していた如く。
それが庵野秀明の創造する人物像だった。

だが、ここ『シン・ゴジラ』に至って、これまでの痛々しいほどの人物造形は鳴りを潜め、人間的感情や情緒に流されないキャラクター達ばかりが大挙登場している。

 

ここで庵野秀明に1995年の『エヴァ』から2016年の『シンゴジ』に至るまでのこの20年の間、いったい何があったのかなどを探るのはここでの本筋ではないので省くが、『エヴァ』(おもにTV版~劇場版『まごごろを、君に』まで)の頃はまさに「ヤマアラシのジレンマ」的な心象だったものを『ヱヴァ』新劇場版の鬱を経てついに

「何も期待しない、達観する」

という視点にまで昇華してしまったように思える。

諦観とも違う。「あきらめ」とはまだ己の中に感情が燻っている状態であり、それを理性が抑えることだ。
この『シン・ゴジラ』ではそんな燻りさえ見せない。ただすべてを無感情に眺めているように思えた。
感情が触れることさえも無いのだ。

他との感情の交流を図ることも望むこともしない。コミュニケーションの断絶。心の扉を閉ざした遮断。

あれから20年を経て、庵野氏の心情は更にセントラル・ドグマの底に深化していったようにボクには思える。

 

にも拘らず、シンゴジの”巨大不明生物”は、観る者に焦燥感と哀しみを植え付けるアイコンとして機能する。

 

■史上最も哀しい「ゴジラ」
今回『シン・ゴジラ』を観賞して、最も哀しさを醸したシーンがある。
攻撃を受けたゴジラが背中から幾条もの光線を発して破壊の限りを尽くすシーンだ。

正直、すべてのゴジラ映画を観てきたけれど、これほどに悲愴な映像は見たことがなかった。

それは、互いにコミュニケーションがとれない歯痒さと、異形の物が受け容れられない慟哭のようにも見えた。

この”巨大不明生物”の姿こそ、庵野秀明の深層に残された感情のカケラなのではないか。
造形した人間たちの代わりに、すべての業を負い、あたかも開け放たれたパンドラの箱の隅に残ったたったひとつの何かのように。

 

上述のシーンは哀しい。だが、同時にゴジラ映画史上で最も美しいシーンでもある。

 

■ふたたび『前哨』
『前哨』で月面のピラミッドを持て余した人類は、とうとうその物体を破壊してしまう。
理解不能なものは、ただそこに存在するだけで「畏怖」であり「脅威」だ。

シン・ゴジラもまた相互にアクセスができず理解不能なため、強制的に機能停止をさせられる。

正規な名さえ与えられなかった”巨大不明生物”は、我等人類にとっては、コミュニケート不能な腫瘍のごとき異物=脅威だったからだ。

その後ラストショットに大いなる謎を残して物語は幕を閉じるが、謎はおそらく解明されないだろう。
(たぶん総監督も回答を考えてはいないだろうし、そんなエピソードを創出したところで竜頭蛇尾に終わると思う)

これもまた、『前哨』でピラミッドを破壊した後人類が大いなる不安の傘を抱いて終幕することと相似している。

 

ネットの評で、

“『シン・ゴジラ』という作品は観る側の意識下を映す鏡である”

という説もある。

『シン・ゴジラ』は、あたかも惑星ソラリスのプラズマの海のように、それぞれ観た者の潜在意識を具現化するシステムなのかもしれない。

 

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