西崎まりのを知っていますか~20世紀末を駆け抜けた美少女漫画アート系絵師

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西崎まりの。

おそらく、’80年代にMGMなどの純創作同人即売会に足を運び、『ぱふ』や『ふゅーじょんぷろだくと』などを愛読し、やがて訪れる’80年代後半の美少女漫画ブームを熱く追いかけていたような人なら、その独特の幻想的な画風に記憶があるのではないでしょうか。
現在は50歳代のオタク第一・第二世代かと思います。

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西崎まりのが設定を担当したSFCゲーム『PsychoDream』より
西崎まりのが設定を担当したSFCゲーム『PsychoDream』より
※画像引用元→燃えよペンタブ!「サイコドリーム絵ハガキ」

 

けれど、今の10代、20代にとっては、殆ど未知の存在かもしれません。

「西崎まりの」で検索すると画像が見つかる
「西崎まりの」で検索すると画像が見つかるが…

西崎まりのは、今や幻の絵師となりつつあります。

Photoshopなどのデジタル彩色がようやく普及し始めた1990年代、西崎まりのはすべて手描きにより素晴らしく精緻なイラストで美少女誌の誌面を彩りました。

ロリポップ1988年2月号ピンナップより
ロリポップ1988年2月号ピンナップより
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コミック・ラムvol.1裏表紙(1987年11月)

 

西崎まりのの仕事の中で、おそらく最も知られているのはスーパーファミコンのゲーム『PsychoDream』でしょう。


プロモーションムービー。

PsychoDreamプレイ動画(Youtubeより)

エンドロールには”MARINO NISHIZAKI”のクレジットが。

『PsychoDream』プレイ動画より
『PsychoDream』プレイ動画より

この『PsychoDream』の頃、実際に氏の仕事ぶりを生で拝見したことがありますが、イラストボードにアクリルやカラーインクなど種々の画材を使うのみではなく、ニスを上塗りしたり裁縫用のビーズをボンドで貼ったり(!)という、セオリーに捉われない制作法を見せつけられ驚愕を覚えました。
極細のロットリングで描かれたような細い線も、訊ねれば「え? Gペンだけですよ」と平然と答える氏に、
「ああ、すげぇ才能っていうのはこういう人に宿るんだなぁ」と感嘆とともに己の無才との比較に天と地ほどの差を思い知ったのでした。

 

大分出身の西崎まりのは、香川大学に進学し、SF研に在籍。抜群のセンスの絵柄で描かれた美少女とファンタジーを加味した、独自の”匂い”を醸す作風で同人誌界で注目されます。
氏が四国で大学生活を送っていた頃、瀬戸内海を挟んだ大阪ではSF大会が開催、大阪芸大の学生を中心にしたグループが短編自主アニメを発表し気炎を上げていました。
『DAICONⅢ』『DAICONⅣ』と立て続けに制作した彼らが後にGAINAXというアニメ制作会社を興し、ジャパニメーションを牽引していきます。



注)たぶん無断アップロードだと思う…

香川と大阪という距離の近さから、おそらく西崎氏はこの頃にGAINAXのメンバーと面識があったのだろうと思います。
(その縁から一時西崎まりのは吉祥寺のGAINAXでPCゲームのドッターをやっていたり、編集部門が請け負っていた『サイバーコミックス』に漫画を掲載した)

同じ頃、同人誌などを中心に「ロリコン」がブームとなり、
(その頃「ロリコン」という言葉にネガティブなイメージは少なく、トレンド的扱いもされていた)
漫画専門誌『FP』(ふゅーじょんぷろだくと・刊)がロリータ特集を企画。同社から『美少女症候群』が刊行され、ロリコン=美少女漫画はコミック界に徐々に浸潤していきます。

ふゅーじょんぷろだくと1981年10月号(ウェブサイト「早坂未紀の世界」より)
ふゅーじょんぷろだくと1981年10月号(ウェブサイト「早坂未紀の世界」より)
美少女症候群
美少女症候群

『美少女症候群』と富沢雅彦-Blog: Sato Site on the Web Side

 

東京女子高制服図鑑は1985年に創刊。(参考まで)

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東京女子高制服図鑑(’93年版)

 

こんな頃、産声を上げたばかりの「エロ漫画誌」は圧倒的な作家不足を補うため、同人作家たちを青田買いしていきます。
西崎まりのもまたその渦の中に引き込まれていました。

 

1988年の秋にデビューした私(浦嶋)もそんな描き手のひとりで、デビュー前からとある漫画家のアシスタントとして某編集部に出入りしており、そこに頻繁に出没していた西崎氏と遭遇します。

もともと上記の情報から「西崎まりの」という作家は既に知っており、(たしか『ぱふ』だったかで)紹介された氏の同人作品でファンになっていた私は、そこに西崎まりのがいることに驚喜しました。

てっきり彼はどこかのSF系マイナー誌で仕事をしているものと思い込んでましたので。

ただ、ちょくちょく顔を合わせるという程度で、特に互いを意識していたわけではなく、やがて私はその編集部でデビュー。
西崎氏と同じ本で描けることを喜んだものの、私にとって「西崎まりの」は相変わらず雲の上の存在でした。

それが、急激に変化することになります。

 

きっかけは、私の作った同人誌を氏にあげたことからでした。
次に氏と顔を合わせたとき、藪から棒に言葉をかけられました。

「浦島さんて、寺山修司、好きなんですか?」

そのときに献呈した同人誌のタイトルは『奴婢訓』。寺山の戯曲の題からの拝借。
西崎氏も寺山のファンだということから互いに意気投合。交流が始まりました。

※『奴婢訓』はその後単行本『いつも誰かと朝帰りッ』に収録、現在漫画図書館Zにて無料で読めます

クリックで漫画図書館Zのページへ
クリックで漫画図書館Zのページへ

 

なぜか私の作品を西崎氏は気に入ってくれ、その後も一緒に飲み明かしたり、電話魔だった氏と延々と長電話で語り合うような仲になり、
(最長で8時間だったか…最後には「これなら会って話せばよかった」とお互い口にした)
2歳下(氏は早生まれだったので学年としては3コ下)の自分にとって西崎まりのは兄のような存在となりました。

おそらく表現という点において、最も多大な影響を受けたのが西崎まりのであり、人生においても師であっただろうと思います。

※’92年に知人に配られた引っ越し報告のミニ本。B4のコピーを折りB7版8pの構成。こんな小さな物にもグラフィカルな才能が溢れ出ている。
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『PsychoDream』に関わっていた頃が、西崎まりのが表現者として最も充実していた時代だったのではないでしょうか。

あの仕事では300万入ったと話していたと記憶していますが、酒好きな彼はそのギャラを1年ですべて飲み尽くしてしまいました。
確定申告でも「そんなに飲めるわけがない」とまで諭される始末。
まあ、そんな豪快さも好きなところでしたけれど。

 

けれど、それ以後の彼は、リム出版(『エイトマン』を実写化したことで倒産した出版社)で出されていたシリーズ小説のカット・表紙の仕事が、会社が無くなったことで中途で消滅したり、また’90年代序盤に起きたコミック規制の煽りで雑誌での仕事が激減するなど、苦しい時代を迎えます。

 

正直、彼ほどの才能があれば、エロ漫画というジャンルに拘らずに一段階上のカテゴリへ行くことは難しいことではなかったでしょう。
けれども氏はそれをせず、このフィールドに留まり続けました。

出来たばかりのこのジャンルの水は甘くぬるま湯だったけれど、この甘い湯に浸かっているのが性に合ってたのだろうと思います。氏も、私も。

そんな個人の想いとは裏腹に、成年マークという免罪符を得た成年コミック界のほうは徐々に息を吹き返していったものの、18禁に限定された雑誌の色はますます直截的な「抜けるエロ」に傾倒し、西崎まりののようなサブカル的かつアート寄りの「エロに寄り添った場」を表現手段としていたニッチな作家たちは行き場を失い露頭に迷うことになっていきました。

 

それが影響したのか、西崎まりのは本名に戻り、同郷の創作仲間である松本淳氏と共に「NURK TWINS」というユニットを組んで活動を行っていく、と、私に宣言します。

もともとは、某編集部だったか編集者とのちょっとした意地の張り合いから「そんならもう”西崎まりの”という名は使わん!!」と激昂し、本名を用いようとしてたのですが、それが松本氏とのユニット活動へのシフトチェンジと時を同じくしたのも手伝い、あっさりと”西崎まりの”という個人での活動を辞めてしまいます。

私なぞは近くで見ていてあまりにもスッパリとそれまで築いてきた”西崎まりの”というブランドを捨ててしまうことに戸惑いを感じました。
けれど、本人が決めることなので、介入することもできません。
もとより、いちど決めたら頑として変えないような性質だったろうと思います。

 

けれども、「NURK TWINS」というユニットは、両者の高い理想を追求するあまり、ずるずると袋小路に嵌っていったように私には見えました。
己の出せる最高のものを形にしなければ気が済まない。それは表現者としてより高みを目指す当然の衝動だと思うけれど、それを求めれば求めるだけ、底なし沼のような深淵を彷徨い続けることになっていきます。

私は、そんな沼の中で足掻く西崎氏を見ていました。

 

そんな頃に氏が電話で
「最近、目の隅が虹色に歪むんですよ」
と口にします。

「すぐ病院へ行ってくださいよ。目は僕達漫画家にとって命じゃないですか」
と私は告げ、他からも助言されたのか、眼科へと行き、網膜剥離が判明しました。
即手術を受け無事に全快したものの、検診で医師から「眼圧が高い」と云われたそうです。

もともと目が悪くマンガに出てくる牛乳瓶の底のようなレンズを使用していた氏はそのとき
「このままだと白内障になるかもしれないので気をつけるように」とも知らされたそうです。

そのあたりから、まりのさんは何かを諦めてしまったように思えます。

 

同時に氏の周囲で起きた様々な出来事が精神的な負担を重ねたのでしょう。日頃から酒が好きで朝まで飲み続け更には起きぬけに目覚めの一杯とばかりに缶ビールを開ける(しかも720mlの!)彼ではあったものの、次第に酒量が増え、その行為は体を蝕んでいきます。

結果は体調を崩し入院。肝臓を壊していました。
「トイレで血を吐いた」とも本人は後に私に話しました。

数ヶ月の入院で、氏の体は衰え、ペンを握る筋力も弱くなったためでしょう。退院後の氏の絵は以前の私が憧れたつややかな線は喪われ、弱々しく震えた描線と狂いかけたデッサンのスケッチがそこにありました。

表現する者にとって、技術が枯れることは、命を喪うことと同じです。

 

ファンを魅了したあの煌めく才能の火は、燃え尽きてしまったのだ、と、そのとき私は悟りました。

 

酒は控えるようにと言われ退院したにも拘らず、まりのさんは飲むことを辞めませんでした。

久々に訪問しても食事もまともにとれず、少しの時間で「疲れた」と横になる生気を喪ったまりのさんに、私は彼の死を覚悟しました。
やがて、電話のみで会わなくなっていきます。けれどその電話も「受話器が重くて疲れる」と、以前のような長電話はできなくなっていました。
周囲にも「自分は、もうまりのさんは死んだと覚悟することにした」と明言していました。
「そうすれば、本当に死んだときの気持ちの準備ができるから」

 

まりのさんの死が私に伝えられたのは、それから1年も経たない頃でした。

肝硬変でした。

 

奇しくも、寺山修司と同じ死因。
ふたたび血を吐いたまりのさんは、自分で救急車を呼んだそうです。

 

 

ネット社会が本格化する直前に氏は去ってしまったため、残念ながら現在西崎まりのの痕跡をこの電脳空間で探しても、ほんの僅かな欠片しか拾うことができません。当時開始して間もないmixiにもまりのさんは参加してはいなかったし、時代はまだダイヤルアップ通信で、テキストサイトとBBSの時代。
まりのさんとの夜毎の長電話はテレホーダイを利用していたような頃。

 

もしあの頃にpixivのようなイラスト投稿SNSがあり、twitterで気の合う仲間とフォローし合って日がな一日つぶやきを交わしていられるようになっていたら、日々描いた作品をアップすることに勤しみ、話し好きな彼は孤独に病むこともなく過ごせたのではないか。
そんなこともふと思います。

西崎氏の管理していたウェブサイト(クリックでジャンプします)
西崎氏の管理していたウェブサイト(クリックでジャンプします)

自分の中の彼の想い出を残しておこうとブログで記したこともありましたが、中途で挫折したまま年月が経ってしまいました。

西崎まりのに花束を。-浦嶋嶺至、朋友への手紙-
※いつか改めて別の文章投稿サイトへ移設して再開できれば、と思っています。

 

本日、2016年10月12日は、
西崎まりのの十三回忌にあたります。

 

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※私信、梅雨の挨拶と退院報告。

 

人は、二度死ぬと云います。
一度めは肉体が滅んだとき。
二度めは、人々から忘れられたとき。

 

西崎まりのという稀有の才能が、いつまでも生き続けてくれることを願い、
道標として、ここに記事を置いておきます。

 

[2016.10.12 浦嶋嶺至]

引っ越し報告本の入っていた封筒。彼の特徴ある字が好きだった
引っ越し報告本の入っていた封筒。彼の特徴ある字が好きだった

 

※西崎まりの唯一の商業単行本。
美熱少女美熱少女

西崎まりの-Wikipedia
※ネット上では逝去の日を「10月13日」と記しているサイトも一部ありますが、正しくは12日未明です。情報が伝わったのが13日だったので、その混乱から生じたものと思われます。

 

[追記] 西崎まりのの情報を集めているサイト
西崎まりのさんの作品に関する情報-ATELIER SILENCIUM

西崎まりのさんの作品に関する情報
画像クリックでジャンプします

 

※西崎まりのが作画を担当した小説(未完・絶版)

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