ブックレビュー|朝稲日出夫『あしたのジョーは死んだのか』

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某サイトのレビューでは、いわゆる「謎本」の類だと思って購入してしまっていた方が多かったようだ。
まァ誤解するのも仕方がないが、いわゆる謎本ブームが起きた、かの『磯野家の謎』よりもこれの出版は遥かに前。なのでべつにそういった誤解で買わせようと意図したタイトルではない。

自分がこの本の存在を知ったのは、高校生の時分。区内の図書館に何気なく足を踏み入れたときにふと眺めていた本棚にあった新書サイズの背表紙のこの題名に惹かれた。

そのときにはこの本を借りることはなかったのだが、
(もともと本を図書館では借りることはほとんどしない性質である。借りてきても読まずに返してしまうからだ。基本、本は自分で買って読むことにしている)
その後も妙に気になって心に残り続けていた。

ネット時代になり「そういえばあの本いま入手できるのだろうか」と思いたち探してみたところ、果たせるかな文庫版を市場で発見。30年以上の時を経て気になっていた内容を確認することができた。

内容はというと、正直なところを書けば『あしたのジョー』とは一切関係がない。

作者自身の体験に基づく、おそらくは自伝的な小品だ。
たしかに本編中に『あしたのジョー』についての言及は、ある。けれどそれがこの作品の全編に決定的なテーマの地盤として据わっているかといえば、あまりそのような印象は得られない。(おそらくこの作者自身の投影と思われる)主人公が、矢吹ジョーになんらかの感情移入をしてそこからドラマが動きだすこともない。少なくとも読んだ自分にはそう見えた。

この本を読む前に想像していた内容は、

“少年マガジンで『あしたのジョー』の連載最終回を読んでしまった主人公(おそらくは大学生か高校生)が、喪失感を抱え街を彷徨いながら己を見詰め、明日に向かって生きることを覚る”

という、恰も『赤頭巾ちゃん気をつけて』のようなダルな青春モラトリアム小説のようなものだと勝手に考えていた。

じっさいはまったく的外れだったが。

 

ではなぜ作者が題名に『あしたのジョー』というキィワードを挿入したのだろう。

私の読み込みが浅いのかもしれないが、作者はあくまでも”同時代性”を織り込むために使ったのではないか、と思う。

おそらく、私小説に極めて近い作りのこの小説――それはまたこの作者のスタイルでもあろうことは、併録されたもう一編の小品でも伺えるが――作者の生きたイコンとして『あしたのジョー』を挟み込んだのではないだろうか。

じっさい、言及される箇所は、少年時代に少年マガジンで最終回を読んで学友たちとあのラストシーンについて語る回想だけで、あの「真っ白な灰になったジョー」が、その後の主人公の人生に何らかの楔を残したような語りは見受けられない。

 

たとえば、『あしたのジョー』を踏まえた創作物としては、寺山修司の映画『ボクサー』というのがある。

この映画では『あしたのジョー』という言葉は一切出てはこないが、舞台のひとつが「泪橋食堂」だったりと、寺山なりの『ジョー』への敬慕が垣間見える。
(何と言っても寺山は力石徹の葬式を企画しアニメ版主題歌を作詞した人物である)

また、橋本治がかつて(雑誌「ふゅーじょんぷろだくと」の連載だったと思うが)「『あしたのジョー』はなぜ『あした』なのか」といった優れた評論を残している。
(これはいま氏の著作のどれかに収録されているのかもしれないが、名文である)

そこで橋本氏は

“過去を持たないジョーは未来=「明日」に向かって進むしかない。その「明日」がジョーが持っていなかった「過去」と同じ量に辿り着いたとき、「まっ白な灰に燃え尽きる」。”

といったような言及をしている。
(記憶頼りなので正確な表現ではないことをご容赦願います)

私的な心情として、『あしたのジョー』に触れることは相当の覚悟をもって表現すべきだ、との意識があるので、この『あしたのジョーは死んだのか』との隔たりは仕方ないと思った。

 

個人的な意見だが、漫画『あしたのジョー』は日本戦後漫画の最高峰だと考えている。

そうした不朽の名作に刺激を受け創造の糧とする作り手がいるのはむしろ当然とも云えるし、出現しないほうがおかしい、とも思う。

じっさい、以後の日本におけるボクシングを題材とした作品は、何らかの形で『あしたのジョー』の影響下にある、と言っても過言ではない。上述の寺山修司『ボクサー』もそうだし、コミックでは『がんばれ元気』や、『はじめの一歩』もそうだ。
映画なら阪本順治の『どついたるねん』。同監督の『鉄拳』に至っては、『ボクサー』に出演した菅原文太も『ボクサー』とほぼ同じ役回りで登場する。等々、挙げればキリがないだろう。

 

ひとつのジャンルの方向性を決定づけた偉大なる作品。それが『あしたのジョー』だ。

 

奇しくも、今年2018年は『あしたのジョー』雑誌連載開始から50周年だという。
先だっての大型連休ではそれを記念した展覧会も開催された。

『あしたのジョー』を翻案したアニメ『メガロボクス』の評判もいい。

日本漫画界に燦然と輝く独立峰、それが『あしたのジョー』だ。

少なくとも、それをほんの僅かでも掠めた作品であることは間違いない。
埋もれ消えさせしまうには少々惜しい小説かもしれない。

[2018/01/03読了]

 

「あしたのジョー」連載50周年記念サイト

連載開始50周年記念「あしたのジョー展」公式サイト

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